■空手道の歴史■
発達の 過程 |
空手は、今からおよそ500年程前に中国の「冊封使」という使節が琉球 (今の沖縄県)に渡来し、後に武官(使節団の護衛)が派遣されてきた頃 に始まります。その武官であったといわれる人達(公相君もその一人と言 われている)が弟子を引き連れて琉球に渡来し,拳法を伝えたと『大島筆 記』には遺されています。 その拳法が自然琉球風土になじみ、現在の空手の原型のようなものが 出来上がっていったものと想像されます。実際には、空手の文献は明治 頃まではほとんどありません。それは琉球の歴史上の問題です。 「尚巴志王」が戦国の三山を統一し、禁武政策を進め、刀剣類の携帯を 禁止しました。その後、今から約300年前に薩摩の島津藩が琉球に攻め 入り、あらゆる武器を禁じる強力な<禁武政策>をとりました。 そのため、代々伝統的に伝えられてきた拳法家達は夜霧にまぎれ、浜 辺や山中で密かに修練し、薩摩藩に対抗しました。またヌンチャクやトン ファー等も日頃は農具として利用された武器だと云われています。 『空手』の呼び名はずっと永い年月にわたり<手>または<唐手・トー デー>と呼ばれ、現在のような<空手>の名が付いたのは、後世の明治・ 大正期頃のようです。 昭和11年の<琉球新報社>主催の当時のそうそうたる空手家達の座談 記事によれば、沖縄に於いては当時はまだ、手・唐手・空手などと呼ばれ 呼称の確立はなかったようです。 本土には船越義珍翁等によって大正5・6年頃<京都武徳殿>に於いて 初めて紹介されました。 <空手道>の名称も<徒手空拳>のいわれから自然発生的に広まっていった ものと思われます。 空手には、その伝承された沖縄の地域の名があり、首里城下から広まった ものが<首里手>、那覇港付近から発祥したものが<那覇手>と呼ばれ ています。<泊手>は泊港付近です。 |
流派の成立 |
■尚心派糸東流の生い立ちについて 名人・松村宗棍(首里王城指南)→糸洲安恒(近代空手道の祖)・東恩納 寛量→摩文仁賢和(糸東流開祖)→坂上隆祥(糸洲会)→卯野久博(尚心 派糸東流・宗家)→長谷川進
(体氣会) 他の伝統系流派=糸東流・剛柔流・松濤館・和道流・上地流 ほか |
近代化 |
空手はその後、近代化の道を辿り、競技会も発展し、国際的にも大きく実 績を残し、卯野会長の先輩でもある、米国ロサンゼルス在住の出村文男師 範など、多くの日本人の空手家が外国にも紹介し、今では世界の空手人口 は、一億人以上(WKF調査)と云われ、各国で空手の稽古に励んでいます。 また内外を問わず、大会競技会等も花盛りの今日となり、2020年の東京 オリンピックの正式種目ともなりました。先人たちには大いに感謝をするとこ ろ大です。 |
昭和初期の空手道大家達 沖縄=首里城・守礼の門